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何を尋ねるべきか

何が良い問いなのかは、率直に言うとさっぱりわかりません。わからないなりに考えたことを話します。

ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』というSF小説に、こういう筋があります。

生命と宇宙と万物についての究極の答えを求められたスーパーコンピュータが、750万年かけて答えを出す。答えは42。ただ、それが何に対する答えなのか、誰も知らない。究極の問いのほうを、誰も持っていなかった。問いを出すにはもっと偉大な計算機が要るということで、有機生命を部品に組み込んだ計算機として地球が作られるが、計算が終わる5分前に取り壊されてしまう。

答えはあるのに、問いがない。ここが妙に引っかかります。42という答えを見ても、そこから問いは出てこないという。6×7とかもっとシンプルに40+2もありうるのに。逆に、もっと複雑な問いも立てれちゃうんですよね。つまり、答えから問いを逆算しようとすると、候補が無限にあって決められないわけです。逆運動学に近いなこれ、と思いました。ロボットアームで、手先をここに持っていきたい、という答えが決まっても、それを作る関節角度の組は一つに決まらない、というやつです。こういう、結果から原因へ遡る問題は逆問題と呼ばれていて、大抵は解が一つに決まらないらしいです。

前に、単語は柱で、柱を繋いだ橋を通ることで初めて意味が生まれる、という話を書きました。その言葉で言うと、問いというのは、今かかっている橋の先を推定するときに、次にかかる橋の柱はどこにあるのかを示すものなんじゃないかな、と思っています。柱の立ち方によって橋のかかり方が変わって、道を通った時のコンテキストも分岐して変わる。

で、どこに柱を打つのが良いのか。冒頭の通り、さっぱりわからないんです。ただ1個直観があるとすれば、本質的な問いというのがあるはず。じゃあ本質的とはなんだ?って話になってきちゃって、そこから先もわからない。

ただ、良い問いの条件みたいなものは、調べるといくつか出てきます。問いの前提が壊れていないか。答えを聞いたときに、見込みがどれだけ動くか。ヒルベルトという数学者は、解く過程で新しい方法が生まれて他の問題まで動き出すかどうかで問題を選んだらしいです。ただ、どれも僕の場合は腑に落ちませんでした。他の問題まで動き出すのが良い問題だと言われても、じゃあどの問題が動いてほしいんだっけ、というのは自分で決めるしかない。見込みが動くのが良い質問だと言われても、どの見込みの話かは分からないことが多い。結局どれも、何を大事にしてるかが先に決まってないと使えないんですよ。で、何を大事にすべきか?って、それがまた問いなんですよね。良い問いの条件を調べてたのに、問いが一個増えて戻ってきた。まいったなこりゃ。

はい。その辺りで、パースという150年くらい前の哲学者の文章に行き当たりました。疑念には二種類あると書いてある。紙の上の疑念は、あらゆるものを疑ってみせるけど、生活は何も変わらない。生きた疑念は、放っておくと生活が進まなくなる。探究を動かすのは後者だけ、らしいです。

これ、覚えのある形なんですよ。前に神という言葉を使ったことがあります。信仰の話ではなくて、その人の中で他のすべてに優先してしまう何か、そこから残り全部の順番が決まる一点、という意味です。試しに生きた疑念っていうのは、答え次第で残り全部の順番が変わってしまう疑念のことなんじゃないかと考えてみます。だとすると、本質的な問いというのは、その人の神の疑問文形なんじゃないか。

これなら、正しい神かどうかは決められなくても、いるかいないかは分かります。人間の執着心というか、性向というか、いつか振る舞いに現れるんすよね。放っておいても戻ってくるとか、他の全部を後回しにさせるとか。つまり良い問いは、外に探すのではなく、何かを掘り出していくもの。この表現が僕の直感に一番近いです。

で、僕のを掘ってみました。僕の神の疑問文形は、意識とは何か。だと思います。意識について知る過程で、自分とは、他人とは、となっていくのだと思います。

けどこれだとわからないことが一つ。。今自分が立っている橋は何なのか。最初の問いがあったのか、だから橋が続いたのか。根本の柱は、いつどこで現れたのか。正しい柱なのか。この辺は決められないまま。なんか適当に柱は何個も立ってて始点にはスロープがあって登ればよかっただけとか考えれはするんですけどね。意味あるの?これ。っていう。ユングってどんどん自分の内側を掘ってったらしいじゃないですか。同じなのかはわからんですが、僕も似たようなやり方してるなとは思いつつも、決めきれんアホさが自分にあるのがだるいなと感じます。

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