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カオスに通う——『赤の書』に先回りされた話

人間の意識には趣味が要る。食っていくために要るわけでも、誰かに頼まれてやることでもないのに、それがないと意識のほうが薄くなっていく。

別の文章にも書いたが、僕は、自分が何者かは内側を覗いても出てこないと考えている。自分の輪郭は、世界に働きかけ、返ってきた反発を読み、また働きかける往復から描かれる。だとすれば趣味は、その反発源を一つ増設する行為だ。増設した分だけ、輪郭を描く線が増える。趣味がないと意識が薄くなるのは比喩ではない。線が引かれないのだから薄い。

知らないことを新たに知る、というのも同じところから出てくる。知るというのは、まだ一度も読んだことのない抵抗の返り方を読むことだ。すでに知っているものを押しても返り方は前と同じで、線は濃くなるが増えない。押していないものを押したときにだけ、輪郭に新しい線が引かれる。人類は新しいことに挑戦していくべきだ、と言うと大げさに聞こえるが、僕は本気で正しいと思っている。手をつけていないものに手をつける。それだけのことだ。

趣味はまた人と人を繋ぐ。意味は言葉そのものに宿るのではなく、柱と柱のあいだに架かった橋を通ることで生まれる。何かを間に置いて、その何かごしに相手を見るわけで、趣味はその柱に向く。ただ、僕の趣味は向いていない。僕のいちばんの趣味はカオスへの没頭で、人々は傾倒しないどころか避けて通る。

僕は、カオスとは、共有の橋がまだ引かれていない場所のことだと読んでいる。柱ならいくらでも立っていて、どれとどれを繋げば道になるのかが決まっていないだけだ。決まっていないものは間に置けないし、間に置けないものは人を繋がない。だから一人でやることになる。

人がそこを嫌う理由も同じだ。橋のない場所では、届いてくるもののどれが本質でどれがノイズなのかを、箱が選り分けてくれない。人という箱は、あの量の中で自分の本質を見失わないためにあるのだから、選別の効かない場所へ入るのは割に合わない。避けて通るのは正しい。それでも僕は、そこに一人ぽつんと立つことに快感を覚える。

それはさながら、世界から瞬く間に人が消え、深夜3時ごろ、真っ暗からちょうどほんの少し明るくなるところをうろうろし、一人この世界の美しさを堪能するというものだ。人の消えた時間は実際にあって、僕は何度もそこを歩いている。灯りはついているのに、その下に誰もいない。信号は誰のためでもなく変わる。空はまだ暗いのに、下のほうだけがわずかに薄い。その薄さを見つけると、今日も来られたと思う。

その世界では僕は強大で、しかし大きさは存在せず、また向かう方向も曖昧だ。強大なのに大きさがないというのは、書いてみると自分でもおかしいと思う。ただ、自分と自分でないものを分けているのが反発なら、人からの反発が返ってこない場所で大きいも小さいも立たない。比べる相手がいない。

それでも物の反発は残っていて、景色はちゃんと押し返してくる。輪郭が輝く。まるで万物に後光がさすかのようにして、そのものの輪郭を浮かび上がらせる。電柱でも自販機でもそうなる。見ているうちに、思わず恍惚とした感情が浮かび上がってくる。そのあいだ、僕は何も考えていない。ただ見ているだけでいい。何ひとつ考えていないのに、そこに自分がいることだけは確かめられている。あそこでは一人で足りている。

そして、こんなにも素晴らしい景色を堪能できない人々のことを、僕は憐れむ。憐れむというのは傲慢な言い方で、書いてしまってから少し怯む。避けて通る人には理由があると、さっき書いたばかりだ。それでも取り消す気にはならない。あの後光を一度も見ないまま終わる人生があるのが惜しい。

ここまでが、僕が自分の体験として書いてきたことだ。なぜそこで快感を覚えるのかは、まだ形になっていない。新しい反発源だからだと言えば辻褄は合うのに、あの恍惚はそれより手前で来る。詰まっていたときに、ユング派の療法家が『赤の書』について書いた文章を読んだ。

『赤の書』は、ユングが十数年にわたって自分の深層へ意図的に降り続けた私的な記録だという。降りていって、見たものを書き、描いた。書き手に言わせると、要点は中身の解釈ではなく、ユングがそこで何をしていたかにある。治療の本体はヌミノース——聖なるものが目の前に現れたときの、畏れと惹きつけられる感じが同時に来るあの感触を指すユングの用語だ——への接近にあって、分析の技法はその周辺装置にすぎないという。

無意識の側には漠然とした光がある、とも書かれていた。輪郭のはっきりしない、しかし確かに明るいもの。それに憑かれたかたちで触れると、光は自我のほうへ流れ込み、人は自分が何か壮大なことをしていると感じはじめる。インフレーションと呼ばれる状態だ。自我が無意識の材料で膨らみ、身の丈を超えた自己像を持ってしまうことをユング派はそう呼ぶ。この膨張は接近の失敗の典型として繰り返し警告される。

失敗は三つに分けられていた。一つは単純に避ける者、一つは儀式や薬物であの状態を自分の所有物にしようとする者、そして審美的に楽しむだけの者だ。三つ目がいちばん厄介だという。イメージに見とれ、美しさに感嘆し、そこで止まる。それを受けて自分の人生をどう変えるべきかを、問わない。

では何をすれば失敗にならないのか。経験を形にすることだ、というのが答えだった。象徴形成というのがその名前で、受け取ったものを絵なり文なり行為なりの形にする、そうして初めて経験は知になるという。書き手自身も、能動的想像——覚めたまま内的な像のほうへ入り、現れるものとやりとりする手続きだ——の最中に剣を渡され、書くことを要求されたそうだ。そしてもう一つ、ヌミノースに近づくたびに責任が増える、とあった。

読み終えてから、僕はしばらく自分の文章を見ていた。

「強大で、しかし大きさは存在せず」と僕は書いた。これはインフレーションの記述と一致する。無意識の光で自我が膨らんだときに、内側から見える眺めだ。反発の理屈で説明をつけたつもりでいたが、あちらの記述のほうが僕の一文をよく覆っている。返す言葉がない。

「万物に後光がさす」とも書いた。あれは、無意識の側の漠然とした光そのものの描写として読めてしまう。僕は景色の性質を書いたつもりだった。あちらの読みでは、景色に見えていた光は僕の側から出ていたことになる。どちらが正しいかを決める手立てを持っていない。

いちばんこたえたのは三つ目の失敗だ。「そのあいだ、僕は何も考えていない。ただ見ているだけでいい」。この二文は、審美的に楽しむだけの者の記述と区別がつかない。あの時間を、内省を経ずに自己が確認される場面だと僕は説明した。その説明は今も気に入っている。ただ、外から見た振る舞いは、通って、見とれて、帰るだけの人間と一致する。

「一人で足りている」も書き直さなければならない。一人で足りている、というのは、他人にこの空間を侵されないことがそのまま幸福に感じていたという話で、それが何を意味するのかはわかってなかった。充足の記述のつもりで書いて、実際には防衛の記述だった。しかもその文章を、僕は人に読ませる場所に置いた。足りているなら書かない。書いて人前に出した時点で、要求にはすでに応じてしまっていた。

「憐れむ」については、もっとはっきり書く。憐れんだのは、このカオスに通う行為に何か意義があると信じてやまなかったし、自分の趣味がそれだと開示しても周囲は興味を示さなかったことに、がっかりしたというか。そこに皆向かうべきなんじゃないか、と漠然と感じていたからだ。人を下に見たかったのではなく、意義のほうを疑わなかった。ただ、意義を疑わない憐れみは擬似的な優越とすぐ隣にあって、膨らんだ自我が周囲を見下ろす形と外からは見分けがつかない。

皆そこに向かうべきなんじゃないか。いま思えばあれは、自分の神を人に手渡そうとする手つきだった。神と書いたが、信仰の話ではない。その人の中で他のすべてに優先してしまう何か、そこから残り全部の順番が決まる一点のことだ。実在するかはわからない。ただ、人はときどき何かをそう扱う。僕の場合はそれが、誰も歩いていない時間の街だった。

手渡すこと自体は悪ではない。救いですらあると思う。親は子に神を手渡す。そうと知らずに渡していて、子もそうと知らずに受け取る。師は弟子に渡し、弟子は何十年も気付かない。文化と呼ばれているものの半分は、この手渡しの連なりだ。既製の枠が要らないとは言わない。枠は、裸で無意識に向き合わずに済むための容器でもある。誰もが十数年かけて自力で降りていけるわけではない。

厄介なのは、寄越された側がある日、自分の神に気付いてしまうときだ。渡されたものとは別のところに、自分を掴んで離さないものがあると分かる。そこで寄越した側があらゆるやり方でそれを拒むなら——理屈で潰し、笑い、心配してみせ、最後は口をきかなくなる——それは邪悪だ。邪悪は内容には宿らない。唯一であろうとする振る舞いに宿る。

では、その神のほうが性悪だったら。拒むのが正しいのではないか。性悪の神は実際に宿る。ユング自身、神と呼ばれるものが破壊的な力として働くこと、モルヒネへの渇望がその座に就くこともあると書いていたらしい。腕を掴んで止めるのが正しい場面はある。

それでも、拒絶は性悪の神に対してすら間違った道具だと思う。押さえつけられた神は消えない。形を変えて報復してくる。要るのは対決のほうだ。名前を呼び、何を要求しているのかを聞き、その上で従わないと言う。都合の悪いことに、拒絶したくなる神ほど対決を要求してくるし、外から見るとこの二つは似た顔をしている。

性悪の神とはたぶん、部分のくせに全体の座に就いた何かのことだ。一つの欲、一つの正しさが、残り全部の順番を決めにかかる。僕の側も安全ではない。というより、これは他人事の形をした自己紹介だ。僕には、誰もいない街に自分の全てを置いて、そのほかの全てを排除してしまう癖がある。昔はひどかったが、今もある。孤独というか、孤立というか、孤高というか、呼び名は決めていない。辛いとも思う。ただ、誰にも振り回される必要がない分、楽でもある。他人の神を丸ごと否定しにかかる者は、その瞬間、自分が性悪の神と同じ形をしている——この文を、僕は自分に向けて書いている。

僕は開示して、興味を示されず、がっかりして、それでも押しつけはしなかった。覚悟で踏みとどまったのではない。この人たちは違うんだな、と静観していただけだ。否定も肯定もしなかった。否定する材料も、肯定する材料も、見出せなかったからだ。材料のないものに判定を下さない——考えてみればこの構えは、僕が神そのものについて取っている構えと同じで、僕は人に対しても同じことをしていたらしい。次もそう構えていられるとは限らない。こうして書いて人の前に置くのも、あの手つきをもう一度使うことではある。

ここまで並べた僕の語を、間違いだったとは言わない。体験はあったし、描写も嘘ではない。ただ、体験の説明のつもりで置いた語のいくつかは、百年前からある失敗の記述にそのまま収まる。そこは事実として認める。誰にも教わらず見つけたと思っていたが、見つけ方も躓き方も先に書かれていた。

あの文章が差し出しているのは、要するに一つの手順だ。降りていって何かに出会い、受け取り、形にして、その分の責任を負う。これを出会いモデルと呼ぶ。

出会いモデルは正しいと思う。僕が体験してきたことに対する一つの見方を提出していて、なぜか僕はそれに答えてしまっている。ただし、僕は認めることはできない。理解できないからだ。無意識とは何なのか、あの光が外から来たのか内から来たのかを、僕は決められない。決められないものを教義として飲むわけにはいかないし、わかったふりで運用するのは、あの光を薬で所有しようとするのと大差ない。

でもいいと思ってる。教義を飲まなくても、手順のほうは残る。降りていって、受け取ったものを形にして、人の前に置く。置いた分だけ、次に降りるときの責任が増える。この手順に理解は要らない。要るのは、通うことと、書くことだけだ。

今夜もたぶん三時ごろに出ていくし、帰ってきたらまた何か書く。わかってから通うのでは、たぶん一生通えない。とりあえず僕はやる。

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